当山は今を去る一千年の昔、三河国司大江定基公の室「花井媛」が霊泉涌き出て、四季の花咲く此の地に「地藏尊」を奉じて菴を結ばれことに始まります。 媛逝去後も、この地藏菴は里人のよりどころ、また病気平癒の霊験あらたかな泉の地として、護持されてまいりました。
久安4年(1148)、八名郡吉祥山今水寺の慶寛法印様が来住、堂宇を興し「龍源院」と号す真言宗の道場とされました。爾来三百五十年にわたり隆盛を誇りましたが 、文安5年(1488)大火災をおこし、全山焼亡してしまいました。その灰を捨てた所が小山をなし、時の人はこれを「灰野塚」と呼んだといわれ、もって往時の繁栄の様子が偲ばれます。
応永年間(1394-1428)には、永平寺開山道元禅師様五代の孫、華藏義曇禅師が末山し、留錫、曹洞禅を此の地へ伝えられ、大永4年(1524)に至って京都より辨鏡長老が随徒十二員と共に入寺、華藏禅師の旧蹟をおこし、禅宗寺院として新たな歴史を刻むこととなりました。
この随徒十二員のうち、浄水勧清座元は上野城主酒井将監忠尚公の帰依を受け、天文15年(1546)、伽藍を新建、龍源院を改め「花井寺」と号し、尾張より東厳文菊大和尚を迎え、また虎山文竜は塔頭「香林軒」を開基され、ここに当山は名実ともに曹洞宗寺院としての歩を踏みだしました。
東巌様は師の妙厳五世竹雄受貞大和尚様を勧請されると共に、延命、明全、正岡、医王寺を開創されるなど、当山の寺基を固められ、三世様は、牛久保城幕営中の徳川家康公の帰依を受け、四世様は光福、蓮華、金像、東昌寺を開山され、また家康公が慶長8年(1603)に江戸幕府を開かれると同時に、伏見城にて「御朱印状」を受けられました。これは最初期の御朱印地認定であり、もって帰依の深さが知られます。
こうして当山は、花井渓の地に、坐禅堂、衆寮を備えた修行道場として繁興の一途をたどり、また近隣の人々の帰依を受けて門末二十五ヵ寺を開き、更には吉良・神吉・古川新田を拓くなどの社会事業をも興す、当地屈指の大寺へと成長いたしました。